社日、天赦、一粒万倍日、小犯土、三隣亡 (旧暦 如月六日)

 これは良いニュースだ。
 と思いました。

https://news.yahoo.co.jp/articles/d7ce5965817932384b2326063ba8402f168ea562

 神社本庁の存在意義ってのがね。
 あんまし無いと思うのですよ、令和の今となっては。

 記事の鶴岡八幡宮みたいに、大きな処は単立でも経営が成り立つでしょう。
“村の鎮守”みたいな処は、地域の人たちによって何とか維持している状態。

 つまるところ。
 神社本庁と関わらなくても、大きな神社はやっていける。
 神社本庁は末端の神社を支援とかしていない。
 なら要らなくね? となるのは自然の理かもしれません。

 言っちまうとですよ。
 神社本庁は、あの国家神道の本体である神祇院をルーツとします。
 つまりは「滅私奉公」や「七生報国」や「一億火の玉」の総元締め。極論すれば、露プーと思想が同じだったんです。
 戦後、関係者は反省・改心したことになってはいますが……はてさて?

 というところで。
 神社本庁天照大御神のご意志に沿っているかどうか?
 という点からして、はなはだ疑問なのですよ。

 まあ、バラけたところで、伊勢神宮神社本庁と縁切りなどしないし、できないでしょうけど。
 それでも、有名処が次々と離脱するのは、神道にとってはむしろ良い事だと考えます。
 神道って、源流を辿れば太陽とか月とか星とか山とか海とか川とか水とか火とか植物とかとかとか自然信仰でしたからね。三輪山御神体とする大神神社や、那智滝御神体とする熊野那智大社などに、その名残があります(この二社、主祭神がそれぞれ大物主神大己貴神というのも判りやすい事例)。
 それを古事記日本書紀によって、宮中に都合の良い宗教形態すなわち天孫崇拝へと改変した。それが今の神社神道

 この問題なー。
 水木しげるさんの『古代出雲』を読んでから、ずっと考えてるんですよ。と言うか、昔っから考えてはいたんですけどね。
 本来の神道に沿うなら古代出雲をルーツとする国津神だけでよくね? 侵略者である天津神天孫族)なんてスルーでよくね?
 ってね。
 天照大御神だって、元々は諸外国同様にシンプルな太陽神だったのが女神になったのも、宮中の都合によるものですし。
 そう。我々が知るところの女神アマテラスは実は太陽神に仕える巫女だった、という説があるのですよ。つまり、女神アマテラスは太陽神から乗り換えての、何者かの傀儡政権ってね(オルドナ・ポセイダルとミアン・クゥ・ハウ・アッシャーとの関係に似てなくもない)。その何者とは? ってのは言わずもがな。

 神棚に、まずは伊勢神宮の神札を、次に氏神様を、末席に個人的に崇拝する神様を。というのも神社本庁が言っているだけです。
 そして、伊勢神宮の元々の姿は天皇のためだけの宮だったという歴史があります。今でも、伊勢神宮は一般参拝者が願い事をする神社ではない、とされていますし。
 よって我々庶民の本来は、それぞれ個々人が崇拝する神社の御札だけでよかったのだと思います。あくまでも想像ですが、地域内の鎮守社が手作業で刷った御札を家々で大黒柱に貼る、それだけだったんじゃないのかな昔は。
 もちろん、好き好きで伊勢神宮の御札を選んでもいいわけです。

 まあね。
 國譲りという名の侵略戦争から数千年。今はもうノーサイド天津神国津神も一緒に仲良く。
 という大らかな解釈をすればいいだろう、と考えていた時期が私にもありました。そして、実際に神様同士、仲良くあっていただきたい。
 しかしながら、もしも万が一にも神社本庁が未だに国家神道の復古を目論んでいるのだとしたら……そこは支持できません。
 そうでなくても、各有名神社が離脱表明するという事実の裏側を推察しますと、神社本庁の言い分を素直に受け入れられなくなるのも仕方のないこと。

 佛教では。
 釋迦牟尼を開祖とするにも関わらず、各宗派で寺院や佛壇の御本尊が違います。御本尊を固定しない宗派もあります。
 つまりは、各家庭・各個人それぞれで祀る佛様を好きに選んでも問題ないわけです。佛でなく聖徳太子や鑑真を拝んでもいい。達磨大師だって七福神の布袋和尚だって、実在した(とされる)お坊さんですし。

 神棚も本来は、そうあるべきでしょう。めいめいの好きなようにあるべきでしょう。
 唯一絶対神の宗教ではないのですから。