三隣亡 (旧暦 如月廿四日)

 さて、別記事にしまして。
 北尾氏の才能を狂わせた(かもしれない)指導者について。

 大相撲における北尾氏の師匠は、当時の立浪親方(現役時代の四股名は安念山、最高位は東の関脇)です。
 この人、現役時代は稽古の鬼だったそうで、力士としては真摯で真面目な好人物だったようですね。マスクも良かったそうで、かなりモテたらしい♪
 ですが、良い力士が良き師匠になるとは限らない。自分が相撲を取るのと誰かに相撲を教えるのとでは求められるスキルが、まったく違いますからね。

 この安念山の立浪親方、話題に事欠かない人ではありました。
 横綱双羽黒の廃業事件と、立浪部屋を娘婿の旭豊関に継がせるべく場所中に電撃引退させた件と、そして定年退職後にその旭豊である新・立浪親方との確執と金銭問題と裁判沙汰、あたりが大きいかな。

 しかしながら、これらの間に隠れたものも見過ごせません。
 逸材ではあるものの、こらえ性のない北尾を甘やかして育てた件。これに反比例してか、他の力士育成をないがしろにした気配がありますね。
 そして双羽黒の廃業で部屋の関取がゼロとなったため、日大に声をかけて卒業生を取りまくった件。一刻も早く部屋に関取が欲しかったのは台所事情を想像すれば容易に判ります。が、そのために先輩である中卒の力士たちが後輩である新入り大卒者の付け人をやる結果となったことを、師匠としてまったく気にしなかったのか? という疑問もわくわけです。
 実際、安念山本人が一から育て上げた関取は北尾ただ一人だけ。双羽黒廃業後に関取になった立浪部屋の力士はすべて学生相撲出身なので、ほとんど日大相撲部が育てたようなものです。双羽黒や、双羽黒の後に入ってきた学生相撲出身の関取たちの陰に隠れてしまった他の力士たちに日の光が当たることはなかった……。この、ひょっとして中卒の弟子たちを雑務要員としか見ていなかったのではないかとすら思える姿勢に、安念山の指導者としての資質に疑問を持たざるを得ない理由があるわけです。

 補足しておきます。
 関取とは十両以上の力士を指します。十両以上には協会から月給と場所給金が支給される、つまりお金を稼げる力士が関取ということです。幕下以下の力士を関取と呼んではいけません。怒られますよ。
 そして、それぞれの相撲部屋には所属する関取の頭数や番付(ランキング)に応じた金額が協会から支給されます。もちろん同じ人数なら平幕より三役、三役より大関横綱のほうが部屋が潤う構図です。またタニマチ(私的スポンサー)も、だいたいは関取に付くものです。つまり、部屋に関取がいなかったら、師匠は金銭面で物凄く苦労するわけです。
 以上、補足でした。

 相撲廃業後の北尾を指導したプロレス界も問題ありですよ。
 新日は破格の厚待遇で北尾を迎えましたからね。たしか猪木さんの肝いりで、コーチ役に佐山さんじゃなかったかな。で、デビュー戦の相手は当時の新日では看板クラスのクラッシャー・バンバン・ビガロ。元横綱とは言え、持ち上げすぎでしょ。ビガロ選手にも失礼だし、実際の試合も塩だったし。
 その新日を勝手に見限ってSWSに移籍したものの、こちらでも団体と対立して結局は解雇される始末。
 SWSはともかく、新日は北尾にある程度の下積みをさせるべきでした。

 要するに、人を、特に未成年者を指導するには相当な覚悟と責任が伴う、それのない者が指導者になっては、みんなが迷惑する、ということに尽きます。
 昨今のスポーツ界の騒動あれこれを見ますと、横綱双羽黒の相撲人生そして北尾氏の生涯について、いろいろと考えさせられるのではないでしょうか。

 伊能忠敬は隠居してから、算術を学ぶために、自分の息子ほどの若い学者に弟子入りし、その勉学を経て日本列島を測量、精密な地図を作りました。
 玄奘三蔵は自分より桁違いに歳上の三妖怪を弟子にし、そんな弟子たちから「お師匠様」と慕われました(いや、こっちはフィクションですが)。
 師匠になるにも弟子になるにも、年齢とか肩書きとか誰が偉いとか言ってるうちはダメなんだと思います。