彼岸明け (旧暦 葉月十二日)

 
 『水木しげるの古代出雲』
  水木しげる/角川文庫


 書店に並んでないのなこれ。つか、これも。
 だから本屋はネット通販に負けるんだよ。

 それはともかく。

 晩年の水木翁が、ずっと気にかけておられたお仕事の一つが、古代出雲王朝について描くこと、でした。
 何でも、夢の中に古代出雲族の青年がしつこく出てきて「描け描け」とプレッシャーを与え続けてきたそうで。

 それで世に出たのがこの作品。
 主だっては、古事記を判りやすく漫画にしたものと言えます。
 ただし、古事記のままではなく「神=太古の人々」という解釈でのアレンジが加えられています。
 これは、かなり昔に手塚先生が『火の鳥 黎明編』でやっておられたことと同じではあります。
 似ている両者の明らかな違いは……卑弥呼猿田彦の存在ですね。『火の鳥』には卑弥呼猿田彦がキーマンとして登場し、『古代出雲』には気配すら無い。
 うーん。卑弥呼はともかく。水木サンの解釈では猿田彦など存在しなかった、ということなのかな? 國譲りにおいて猿田彦は重要人物なのですがねぇ。

 まあ、そーゆーことで内容については触れずとも。

 ただ、気になって仕方ないのは。
 この作品の中では、古代出雲族の青年は、高天原天孫族によって一方的に征服されて国を失った出雲族の無念を広く今の世に知らせてほしい、ということでしたが。
 水木サンの自伝である『神秘家水木しげる伝』においては、この青年は、太古では普通に行われていた精霊崇拝が廃れてしまったことを嘆いていた。そして水木サンに精霊崇拝の復権を委ねた。となっているんですよね。
 しかしながら『古代出雲』では精霊信仰について、ほとんど触れられていません。冒頭での触りくらいなもので。

 どうしてこうなった?

 精霊崇拝について、水木サンは「宗教の前段階であるアニミズムとは違う」とおっしゃっています。
 たぶんですが、イメージ的には、民間信仰ほどにすらちゃんとした形式・作法になっていない、もっともっと漠然とした精霊への敬いや恐れなのでしょう。
 このあたりについても描かれると期待して買っただけに、少々残念です。

 自伝を拝見すると、水木サンは、様式が明確に構築された神道も佛教も信じてはいない感じです。
 古い神社佛閣や、そこに納められている様々なアイテムは墓同様にお好きなようですが、祀られている神佛に進んで手を合わせたことはないそうで。
 言われてみれば、水木作品(他者が原作や原案のものではなく、純粋な水木作品という意味)には佛も神も出てきません。後年のアニメなどではレギュラーの閻魔大王すら、かつては貸本版で目玉親父の台詞に「よく遊びに来る」と名前が出たのみ。昭和の少年マガジン版でも、霊感商法で荒稼ぎするねずみ男をこらしめよ、との地獄からの手紙の記名だけです。
 唯一の例外は、退治が不可能な牛鬼を封印した迦楼羅様だけですね。ま、迦楼羅様は「私は神様ではない」とおっしゃってましたが。

 て言うか、水木サンの作品世界には、死後の世界に天国も浄土も存在しません。あるのは、ただただ地獄のみ。
 貸本版の鬼太郎でも、赤子の鬼太郎を拾って育てた水木、鬼太郎親子を警察に突き出そうとした血液銀行社長、悪巧みをしたニセ鬼太郎、そして鬼太郎が好意を寄せていた寝子、すべて地獄に堕ちてます。罪人でない水木は地獄の入り口あたりでウロウロし、同じく罪人でない寝子は地獄で家を与えられ穏やかに暮らしています。
河童の三平』でも、三平も、その父親も祖父も、罪人でないのに死神によって地獄に連れて行かれました。
 つまるところ、水木サンの考えでは、地獄=根の国、なのでしょう。
 大日如來を始めとした佛がズラリ登場した『ゲゲゲの鬼太郎 死神大戦記』、死後の悪魔くんが復活するまでを天上界で修行していた『悪魔くん 世紀末大戦』、ともに原案・原作は水木サンではありません。
 また、人が良すぎてノルマを達成できずに処分された死神(良く知られる骸骨顔のあいつとは別人)が祝福を受けて天上界に行った、とする『新ゲゲゲの鬼太郎』は青年誌であり、絵柄から想像するに、かなりアシスタントさんの手が入っていると思われますし。

 ちなみに、水木サンの立派なお墓があるお寺は浄土真宗です。
 もちろんお察しのとおり、水木サンの死生観とは完全に矛盾する宗派です。水木サンは墓が大好きなだけなので、お寺の宗派には無頓着なのでしょうね。
 そう言えば、水木サンの実家すなわち武良家は曹洞宗で、幼少時の水木サンの不可思議系師匠とも言える「のんのんばあ」が信仰する一畑薬師臨済宗
 なので、本当に宗派に関心ゼロなのが容易に想像できます♪

 妖精の専門家・井村君江さんとの交流がきっかけでしょうか。
 晩年の水木サンは、妖怪を精霊の一種だと考えるように変化したようです。
 その思想が形になったのが、それまでの鬼太郎をリセットした『鬼太郎霊団』だと思われます。
 この中で、無数の霊たちが世界のバランスを取っているが、ときどき悪い霊が強くなりすぎると鬼太郎霊団が、その出過ぎた分だけを修正する、という意味が述べられています。

 あーそうか。
『鬼太郎霊団』でやったから、『古代出雲』では精霊に触れなかったのかな?
 だとしても、もったいないし、それで出雲族の青年は納得したんでしょうか?

 うーむ。
 もう少し水木作品を追いかける必要があるのかもな。