(旧暦 閏如月廿一日)

 コメント欄の皆さん、すんげー語るなあ。

https://news.yahoo.co.jp/articles/67fae8647f41ad1de843a0371edfdf5c1a2d9b1d

 最終話で主人公を死なせる。

 これは昭和では決して珍しくなかったですね。特にヒーロー物。
 U.S.A. の真似っこから始まった日本のヒーロー物ですが、どうしてもケリをつけたいのは日本人の気質なんでしょうか。死なずとも、主人公は皆の前から立ち去るか、消息不明です。人ではない主人公ロボなら、ほぼ確実に全壊ね(苦笑)。
 U.S.A.作品は常に続編が作れる形で終わらせますからね。なので、U.S.S.エンタープライズ号の調査飛行は延々と続くし、ロビンソン一家は絶対にαセントリーへ到達できないし、遭難した定期旅客宇宙船612便は二度と離陸できないし、過去未来をさまようトニーとダグは現代にだけは戻れないし、デヴィッド・バナー博士のあての無い旅はちぃとも終わらないし、たいていの作品は未完放置状態です。つか、たぶん、米のTV制作側には結末を描く気がそもそもないね。

 そこが昭和の日本ではモヤってたのかな。

 でもなー。
 例えばガッチャマン三作目『F』とかは、もうヤケクソな終わらせかただった気もしますね。やっぱり、瀕死のジョーが“行方不明”で締め括った一作目で完結させるべきだったんじゃ?
『ヤマト』も完結編で、沖田艦長が生きていたとなってポカーンでしたよ、ええ。
 続編に名作が少ないのは、一作目できっちりつけたケリを無かったことにするから、なのかもですね。
 続編作りたいなら、作れるように最終回を軟着陸させとけやボケ、っちゅーことですね。アムロを生かしておいた富野監督(小説版では殺したけどなー)は利口だったということですよ。

 かわって、人間ドラマ。
 こちらのジャンルで、主人公の死をもって締め括るのは、それこそシェークスピアあたりからの伝統かもしれません。
 主人公あるいは主人公ペアが死んで、ようやく周囲の連中は事の重大さに気づいて後悔する。「ザケンナー!」と読者・観客が感じれば書き手・作り手の勝ち、ということですね。
 コメントにも挙がってる『フランダースの犬』は子供時代に児童向け本で読んでトラウマでしたよ。だからアニメは観てません。観ないと決めてたのです。もろちん、今でも断じて観ません。
 手塚先生の『ブラック・ジャック』は一話完結形式ですが、かなりの数の人を理不尽に殺してますよ。BJはいちおう主人公ですが、真の主人公はエピソードごとに入れ替わります。で、半分くらい、あるいは過半数は死んでますよね? 実は石ノ森さんよりも手塚先生のほうが桁違いに大勢殺してると思う(笑)。

 漫画家さんでは永井豪さんも多いほう……と言いたいけど、あの人、主人公だけはあまり手にかけてないような?

 コメントにもある『タイガーマスク』漫画版(漫画を原作とするのは誤り。『タイガーマスク』はメディアミックス展開なので、漫画はあくまでも漫画版)の結末は酷かった。妖怪人間たちに匹敵するほどの、日頃の心がけが浮かばれない最期だった。
 しかも、事切れる直前の伊達直人が最後の力を振り絞って実行した行為も、漫画版『タイガーマスク二世』では、熱心なプロレスファンによって台無しにされていたという(涙)。

 あれこれ叩かれたし、実際にストーリがグダグダで終わった『鉄血』ですが。
 主人公の戦死&敗北エンドは頑張ったほうだと思いますよ。
 ま、あれはガンダムの皮を被ったヤクザ物ですから、それこそ昭和の任侠映画にでも倣っただけかもしれませんけどね。

 まー今の世なら、別にSF作品でなくても、ただの人間ドラマでも。
「主人公が死ななかった別の世界線
 という詭弁で、いくらでも“続編”作れますからね。
 夢オチ、リセット、巻き戻し、パラレルワールドと、SF的量子力学を便利に使いまくる。
 選択肢で結末が変わるうえに、真の結末に到達するためには何度も何度も、いろんな悲劇的結末を観ないとダメなAVGとかの影響でしょうけど。
 やりやすくなったのか、やりにくくなったのか。
 どうなんでしょ。

 個人的には、いっぺん死なせた主人公や重要キャラの復活だけは禁忌にすべきだと思ってます。どうしても再登場・活躍させたいのなら、回想シーンや過去エピソード(主人公の親が若かった頃のお話とか)でやれよ、と。
 でないと、解散コンサートやラスト・アルバムで大儲けしておいてーの、数年後にシレッと再結成するバンドみたくなりません?