三隣亡 (旧暦 葉月十七日)

 西尾維新作品でのタイム・パラドクス的なモノと言えば。
刀語』が出てきます。

 ただし、あれは「未来を予知する能力」でもって「歴史改編」を目論んだお話で。
 しかも改編には失敗してる。

「正確な予知能力」というものを考えると、どうしても矛盾が生ずるわけで。
 例えばの話。
「あなたは今から乗る飛行機の事故で亡くなる」と予言されてフライトをドタキャンしたところ、その飛行機が墜落して九死に一生を得た。という場合、予言は的中したと言えるのかどうか。
「正確な予知能力」でもって飛行機事故での死を予言したのであれば、その人はドタキャンしようと逃走しようと、その飛行機の墜落によって死ぬはずなのですよね。乗らずとも、海路を行っている所に頭上から墜落してきたーっ! とかでね。うむ。
 一方、ドタキャンによって助かったのなら、その時点で予言は不完全だった。ぶっちゃけ外れている。
 四季崎記紀の日本史改編計画は、これと同じ自己矛盾を抱えていた。だから失敗したのですよ、きっと。

 比べて『傾物語』は、ストレートにタイム・パラドクスを扱ったので、びっくり。SFでもないのにね(笑)。
 ちゃんと最近のSF考証に則って「歴史改編は不可能」であり、改編したかに見えても「ただ単に別の時間軸に移動しただけ」という説(『シュタゲ』で言うところの無数に存在する「世界線」ですね)で行ってるし。
 妖怪モノでタイム・パラドクスをやるとは、さすがです。頭が下がります。