(旧暦 如月十一日、田打ち)

『何だコレ』、なかなか興味深かったです。


 家康、実は夏の陣で戦死しておりその後の一年間は影武者だった説は面白かった。
 晩年の家康は影武者だけど、鯛の天麩羅で死んだのは事実で、それは用済みを毒殺した。
 ってあたりが特にね。
 貢献者が御役御免の途端、口封じに始末されちまうってのがねぇ。
 城が完成すると、機密保持目的で、建設に関わった職人全員を消した。とかよく聞きますし。
 怖い時代ですわ。


 そして。

 伊豆大島で恐れられているヒイミサマ。
 一月二十四日の夜は海を見てはいけない。
 各家では玄関に鎌を据えるという本格的な用心ぶり。
 鎌に限らず刃物系、さらに広げて金属は魔に対する防御効果がありますからね。

 でも気づきました。
 旧暦で言えばこの日付、伊豆七島の海難法師ですやん。
 圧政を強いる悪代官が、ブチ切れた島民の罠にかかって一月二十四日に海の藻屑と消えた。
 はめられた恨みで悪霊化したのが海難法師で、海難法師が出現するこの日だけは、島では海のことすべてをやめて静かに過ごす。

 一方のヒイミサマは。
 圧政を強いる役人に島の若者二十五人が直談判。話がこじれた結果、集団リンチに発展してしまい、役人死亡。
 やむなく連中は舟で島を出て、他の島に逃亡を謀るも、受け入れ先などなく、けっきょく海の藻屑に。
 以後、命日である一月二十四日の夜に、若者たちがあの世から帰ってくる。
 彼らは罪人であると同時に、島を救おうとした英雄でもある。といったあたりが海難法師との違いですね。

 ヒイミサマという名は「日忌み」の意味と推測できます。

 ついでに言いますと。
 若者二十五人による直談判と集団暴行は、それこそ江戸の大物さんの武家屋敷くらい広くないと無理です。
 島から舟で逃亡したというのも、そんなデカい舟はなかろうし、あったとすれば大切な大舟なので、その後に島が困窮したはず。
 小舟を複数というのも、二十五人だと七、八艘は要るから、乗り逃げでやっぱり島が困る。それと、複数隻なら生き残りがいていいはず。
 つまるところ、「二十五人」という数字に現実味がありません。
 この人数、日付からきたものだと考えられます。
 昔は日没を一日の始まりとしたので、今の暦でいう二十四日の夜は、当時の勘定では日付代わって二十五日に入っているのですよ。

 といったあたり、ヒイミサマの伝説には、あれこれと作った感わざとらしさ感が見受けられます。
 つまり。
 ヒイミサマとは、海難法師の伝説を元に変化したヴァリエーションの一つであり、源流は海難法師である。
 と結論づけられますね。

 いや面白かった。