制作発表のときは「随分と先の話をするもんだ。気の早いことで」と思ったものです。
んが。
気づけば来月なんですね封切り。
ルーク、レイア、ソロの三人を観るのが楽しみでもあり不安でもあり。
でも、老けた三人を出すのは、ルーカス氏にとって第一作目の頃からの構想だったと聞きます(全九話予定でのこと)。
それが途中(アナキン編を展開中の頃)から全六話構成に変更、『ジェダイの帰還』をもって物語は完結したとされ、一度はその構想が消えたと思いきや。
権利がルーカス氏の手を離れたことで逆に、あらためて三人の再登場が可能となったとは。
まったく、何がどう幸いするか判らないものですね。
結果オーライとは、こういう場合に使う言葉ですかねー(作品の出来を観てからですが)。
エピソード1〜3はね。
アナキンが救いようのない阿呆なせいで、ぶっちゃけ私にとってはつまらない三作品でした(例えるなら、『Zガンダム』でウォンさんに修正される前のカミーユより桁違いに酷い性格だと思う)。
何より、アナキンが最終的に闇堕ちすることは決定事項でしたからね。結末判ってて「盛り上がれ」と言われてもねぇ……ってことですよ。
ならば経過を楽しもう、と思っても、繰り返しになりますが主人公が馬鹿すぎた。同情も共感も持てない自業自得な
これがね、制作・公開がエピソード1から順繰りだったら感想はまったく違ったと思います。アナキンの危ない性格にハラハラしながら、それでも「最後には良い奴になるんだ」と期待してて、で、あんな姿に変貌したら、そりゃー盛り上がりますって。
平井和正さんの言葉「ハッピーエンドは物語の死である」を逆読みして「バッドエンドは物語を生かす」と考えれば、アナキンの闇堕ちは続編を期待させるパワーに満ち溢れているわけです。
それでもって、ルークの物語にバトンタッチすれば、どうあったって燃える展開は必然でしょう(これ、王道でもありますし)。
『STAR WARS』をまったく知らない人には、公開順でなくエピソードのナンバリング順に観ることを強くお勧めしたいと思いますね。
あと個人的には、ルーカス氏が1〜3の公開に合わせて、4〜6の大幅修正をしたのが気に喰わないのです。
エピソード4へのジャバ・ザ・ハット出演は、まだ許せるのです。
しかしながら、エピソード6のラスト、イウォークの大宴会シーンにて、故人となっているヨーダ、オビ=ワン、そしてアナキンが笑顔で宙に浮かぶわけですが。公開時にはシワのあったアナキン(劇中でベイダーが兜を取った人そのもの)が修正版では青年に、つまりエピソード2と3に出ていたアナキンに差し替えられていた。これがね「ザケンナー!」ですわ。だって、そもそも辻褄合いませんから。
完成させてなお、直したい箇所に次から次へと気づいてしまう。この気持ちは判らんでもないです。が、公開しちまった以上、腹をくくるべきなのです。でないとキリがありません。
映画のソフトが気軽に販売されるようになって、著名監督にこの傾向が目立ちますね。いわゆる「特別編」とか「修正版」とか「ディレクターズ・カット」とかいうヤツ。あの『ブレード・ランナー』なんて「いくつ版があるんだよ!?」状態ですぜ。
後出しジャンケンのようでフェアではないと思うのですよ。公開時に観客が受けた印象も大切ですし。
一旦、完成を宣言した以上は、それ以降の安易な修正など、すべきではない。ここは作り手としての我慢のしどころでしょ。