(旧暦 水無月廿九日)

 それにしても、まゆしぃ☆の懐中時計が持ち主の寿命とシンクロして壊れる、というのは怖いですねぇ。

 ということで、今日も世界線、つまりは時間軸のお話でも…………と思っていましたら。
 まさか。

 
 小松左京さんが亡くなっただなんて。

 ご冥福をお祈りいたします。

 
 日本SF界の中でも王道を行くスケールの大きなSF作家だったと思います。

 まあ、『日本沈没』をSF作品と捉えていいものかどうかは個人的には疑問ではありますが。
 でも、これが壮大な名作なのは、まちがいありません。

 ↑の言いようからご推察でしょう。実は妖之佑、ぶっちゃけ小松左京作品が好みではありません。
 日本SFの王道を、というとき、妖之佑は光瀬龍さんを真っ先に挙げる人ですから。
 もちろん、小松さんが偉大なSF作家であることを否定する気は、まったくないので、そこのところは、どうぞよしなに。

 で、小松作品。
 時間軸の話に絡めて触れますと、『果しなき流れの果に』が出てきますね。
 王道を行くタイム・トラベルものですが、とにかくスケールが大きかった。おかげで、一回読んだだけでは把握できませんでしたよ(苦笑)。
 今、調べましたら1966年発表ですね、これ。

 この当時、SFにおけるタイム・ワープものでは、時間軸は一本となっていたように思います。
 つまり、フィクションであるSF作品もタイム・パラドクス(最も基本的なものは「過去に行って過去の自分や親や先祖を殺せるのか?」という疑問)にガチガチに縛られていた。そこを利用して物語が作られていたと感じます。小説も漫画も映画もね。
 私の記憶が正しければ、『果しなき流れの果に』も壮大ではありますが時間軸は一本で、その中で巨大なループを描いていたと思います。

 SFドラマの名作『STAR TREK』(TOS)でも時間軸は一本で、ためにクルーの一人が過去に干渉したときは、カーク船長たちは何も存在しない暗黒の中に取り残されてしまいました。
 これは、当時のSFにおいてタイム・パラドクスを(とりあえず)解決する方法の一つとしてよく使われた「時間の歪み」だと思われます。他に石ノ森章太郎作品などでは、パラドクスを起こした本人が歴史上から消滅する、という解決策もありましたっけ。

 SF界上、最大かつ長期的なる過去への干渉と言えば何を置いても『ドラえもん』ですが(笑)。
 のび太くんというご先祖にドラえもんを使って干渉しまくってるセワシくんですが、実は彼は彼なりに、大きく変化するであろうのび太くんの未来に再干渉して、ちゃんと自分が生まれてくるように日々、調整の努力をしているのです。
「僕の未来を変えたら君は生まれてこなくなるよ」というのび太くんの心配に、セワシくんは「東京から大阪へ行くのに、どの交通手段を使っても、まちがえさえしなければちゃんと大阪に着ける」と答えています(藤子・F・不二雄さん、すげえっ!)。

 これらは時間軸が一つであり、過去への干渉はその軸の改変に当たるという大前提からくるもので。
 後々の80年代あたりになっても、『ターミネーター』や『バック・トゥ・ザ・フューチャー』あたりでは、時間軸を一つとして見ていたように思われます。

 SFにおけるこの前提を大きく変えたのが、多元宇宙論ですね。
 過去に干渉しても、その干渉した世界ではもちろん変化を生ずるが、自分自身や自分のいた世界には何ら変化は起こらない。というもの。つまり、過去改変は分岐を生むだけで変化は生まない。
 SFでは比較的新しい考えかたのようではありますが、実は松本零士さんが『ミライザーバン』という作品において「未来は一つではなく、いっぱいある」ことを描いておられました。これが何と1970年代の作品ですから、びっくりします。
「過去の改変でも自分自身の世界は変わらない」という説を日本で一般に普及させたのは、たぶん『ドラゴンボール』人造人間編だと思います。未来から来たトランクスの干渉で、孫くんたちの世界は進む道を変えましたが、トランクスのいた世界は、そのままでしたからね。

 世界的視野では、やはり『STAR TREK』(TNG)からでしょう。
 この世界では量子物理学による多重宇宙論(あくまでもSF上の)が事実として認識されており、「可能性のある未来は、すべて実在する」(データ少佐の台詞)ということが確認されています。
 要するに並行世界のことなのですが。

 実は、この並行世界論、70年代に既にSF作品では、わりと展開されていたのです。
 例えば石ノ森章太郎さんの『番長惑星』。この中で、舞い落ちる枯れ葉の上と下、というまるで禅問答のような会話を通し、可能性のある別世界の存在を説明していました。実際、主人公は「似て非なる」別の日本に飛んでしまっているわけですから。
STAR TREK』(TOS)でも、「鏡像世界」という表現でパラレル・ワールドを描いていましたし。

 面白いのは、70年代作品に、この並行世界とタイム・ワープとを一緒にして扱ったものが、あまり見られなかったことです(あるいは、それなりにあったけど目立たなかった?)。
 妖之佑の貧弱な知識では、松本さんの『ミライザーバン』くらいです。

 今では、一本だけの時間軸という考えかたはむしろ誤っておりタイム・パラドクスはそもそも存在しない、という方向で各作品は作られているようです。
『シュタゲ』は、もちろんそうですし。
 エロゲからサターン移植で一般向け化した『この世の果てで恋を唄う少女 YU-NO』にて顕著ですが。そもそも選択肢で展開・結末がコロコロ変わるAVGは、まさに多重世界そのものですからね。
 あるいはコンピュータ・ゲームの台頭が、SFにおける多重宇宙論によるタイム・パラドクス解決の推進剤になったのかもしれませんね。

 

 ああ。
 ダラダラと語った。

 無論、肝心のほうの筆は一向に進まぬ……。