ついに豚丼が食肉に……判ってても、きっついですね。
真剣に世話して懐かれていた八軒くんには特に本当にきつかったと思う。
出荷の前日には、ごはんを一切貰えないって……最後の晩餐も許されんのかい!?
家畜に生まれなくて本当によかった。Σ( ̄ロ ̄;)
まあ、畜産業では日常事なので、あるいは「なんでこんなのが物語になる?」って感覚かもしれませんが。
つか、その程度の反応でないと仕事としてやってけないでしょうね。
私は?
無理無理無理無理。
絶対無理。
動物、特に鳥類や哺乳類って人と意思の疎通しますからね。
で、意思が通った相手を食糧にするってのが、もう無理。
だって、畜産というもの自体が家畜動物の信頼を裏切ることで成立するシステムですからね。誰も自分が喰われると知って飼育係に擦り寄るはずはない。知らないから擦り寄るし餌をねだる。彼らが自分の運命を知っていたら厩舎で集団自殺が発生しますよ。
だからね。
甘いこと言ってると叩かれようとも私には無理。
誤解のないようにお願いしたいのですが、畜産業が悪だと言っているわけではないのですよ。
だいぶ以前、NHKで『人は何を食べてきたか』というシリーズがあり。
この第一期が、パン、米、ジャガイモ、乳、そして肉を取り上げたのです。
肉の回のとき、独逸だったかな。山村の農家で大切に飼っていた牛を一頭、冬支度のために潰す。つまり保存食であるソーセージにするわけです。その処理行程すべてに、その家の子供たちも立ち会う。子供は、自分も世話の手伝いをしていた牛が目の前で喉を切られ、その血がタライに受けられ、そして牛が解体されて肉片になっていき、さらに挽肉になり、血と混ぜ合わせて腸に詰められ、そして火にかけるという、すべてのプロセスを見る。解体された牛の横で、腸に詰める前の挽肉と血を混ぜているボールに子供が指を突っ込んで嘗めたのには、もう言葉を失いましたよ。「おまえが世話してた牛の死体だぞ!?」とTVにツッコみたかったほどです。
農家の生活そのものが刷り込み効果なのでしょうね。おかげで、あの子供は何も疑問を抱かずにすむ(大人になってからは、また別かもですが)。
これが「食べる」ということ、「生きる」ということ。
それは頭では理解しているのですけどね。でも、きつかった。
ずっとあと、けっこう最近の番組(たしかNHK教育、あるいはEテレ)で、日本の牧場を取材したものがあって、そこの子供がステーキを頬張るシーンがありました。
けど、その農家の子供は世話していた牛が出荷されるのを見送るだけでした。出荷された先で牛の身に何が起こるかは知らない。親も教えていない。「バイバイ」と笑顔で手まで振って見送った。
そして、何も知らぬまま子供は美味しそうにステーキを頬張る。
全部の日本の畜産農家が、そうではないのでしょうが。
独逸の農家との、えらい違いを感じました。
ただ。
独逸を含め欧羅巴(=キリスト教圏)の場合、このモヤモヤした感じを神様に丸投げしてしまってますよね。
聖書を根拠に「羊も牛も豚も神が人の糧として作られたもの」という免罪符。
これがあるから、あの独逸の農家も可愛がっていた牛、自分たちを信頼していたであろう牛を殺すことに罪悪感を抱かずにすむ。
食事の前に天にお祈りをする、あの行為へと、つながるわけですね。
これは『人は何を食べてきたか』だったのかどうか記憶が曖昧なのですが。
遊牧民の人が何かのお祝いのとき羊を一頭、潰すのです。あぐらをかいたところに羊を人の子のようにだっこして鼻と口を塞ぐ。そのままじっとして窒息させる。
羊が死ぬまで、ずっとマニ車(教典を入れた筒。これを一回転させると全巻を一度詠んだことになる)を回していたのが印象的でした。
この場合もきっと、羊は神様から食糧として与えられたもの、という免罪符に頼っているのでしょう。
しかし日本は?
神道では特に肉食を禁じてはいないはずですが、かなり古くから日本は佛教国です。そして佛教では殺生を禁じている。食糧にするためでも禁じている。
その体制(つか建前)が長く続いたため、日本では肉食の罪悪感を神様に頼って消すことができんのですよ。そういう風習になっていない。
とすると日本の畜産業では、もっと現実的合理的理由で割り切っている、となるのかな。少なくとも『銀の匙』では、そんな感じを受けました。
たぶん、多摩子の考えかたが複数ある正解の中の、もっともシンプルな解答(その域に達するのは容易ではなさそうですがね)。
まあ日本でも、鳥や魚介は殺生禁止の対象外でしたけどね、実際は。
だからこそ「山くじら」や「もみじ」とかの逃げ言葉もあったし、ウサギが一羽二羽だったりするわけで。
ただ、日本では喰うための家畜というのは歴史的に古くはないはずです(重ねて言うが鳥や魚介は別枠)。チョンマゲ時代に飼っていた牛馬は今のトラクターですからね。飢饉などの緊急事態でない限り喰うことは絶対になかった(例外は年老いて仕事ができなくなった個体……)。
なので、やはり日本の畜産業に宗教が入る余地はないのですよ、たぶん。
だからこそ『銀の匙』は重たい。
神様にすがれないから重たい。
そう感じました。
人と家畜の信頼関係というものについては。
藤子・F・不二雄さんの短編『ミノタウロスの皿』という作品が鋭く突っ込んでいます。
この物語では、食べるために育てる側と育てられる家畜とが完全に信頼しあっている。特に驚愕なのは、家畜が自分の立場をすべて理解している点。自分の末路を知ったうえで、それでも育てる側を信頼している。
主人公を含む我々には理解しがたい状況ですが、ある意味、理想的畜産と言えるでしょうね。家畜が理解したうえでシステムを受け入れてくれるのですから、罪悪感が生じる環境にない。
閑話休題。
割り切れない人は、だから菜食主義になるんだろうなあ、宮沢賢治みたく。
一番あかんのは、屠殺を見て見ぬふりして、「自分は殺していない」と涼しい顔をしながら肉をちゃっかり喰ってる無責任な連中(私も含めて)なんだよなあ。
「働かざる者、喰うべからず」という言葉がありますが、「等価交換」の精神からすれば「殺さざる者、喰うべからず」なのでしょうね(この「殺す」には「殺す目的で育てる」も当てはまります、当然のこと)。