(旧暦 睦月九日)

 大和さん、でかい(胸がじゃないよ、上背だよ)。
 さすが超弩級(胸がじゃないよ、上背だよ)。

 ちなみに大和のラムネ、実際にあったんだぜー。
 つか、今もある♪

http://www.tobikiri-n.com/ramune.html

 ブッキーに誘われて海面に浮いただけで空腹って……そこまで運用厳しい設定なんスか?(←原作未プレイな人)

 46センチ砲の発射シーンは、さすがです。
 大艦巨砲主義は絶滅しましたが、それでも、こういう無意味なバカでかさには魅力がありますね。言ってみれば実用性に疑問符付きまくりなマグナム銃の持つ魅力と同類の。あるいは、日本国内の公道で「どう使うねん?」な大バカ排気量エンジンの大型車みたいな。
 まあ、実は長門型も 41センチ砲というバケモンを装備、排水量約四万トンの、大艦巨砲主義から生まれた超弩級なんですけどね(大和型は約7万トン)。

 以降、ダラダラ長くなるので、後ろに畳んでおきます。(;^_^A

 それにしても。
 大和さんのエピソードだったはずですが。
 長門秘書官のあのシーンが全部持ってった気がします(大笑)。


 長門は大戦よりずっと前の建造なので別として。
 大和型二隻の就航は戦時下だったため、それを維持すること、ましてや出撃させたという事実は、当時の海軍上層部が思考停止していた象徴とも言っていいかと思います。なにせ、梵鐘やら家庭の鍋釜まで供出させていたほどの金属不足に陥っていく時代なのですから(この頃は、発行される硬貨が陶製だった)。実際、大和は敵機群の、いい餌食とされてしまったわけです。
 松本零士さんは「戦場まんがシリーズ」にて「大和を作らせた連中は戦車兵に土下座して詫びるべきだ」とまで言っておられます(当時の陸軍戦車は資材不足が祟ったこともあって、紙の装甲だったそうな)。極論ではあるでしょうが、大和・武蔵に供する資材を陸軍に回せていたなら、戦車も少しはマシなものになったかも、という推論は成り立つでしょうね。
 ただ、陸軍と海軍は決して仲良しではなかったので、現実には無理だったとも思いますけどね。航空機、艦船と、世界に通用する兵器を建造した大日本帝国が、ついにまともな戦車を作らなかったのは、上層部の思想も大きく影響していたのが真相なのでしょう。たぶん。

 軍内部の連携の悪さ、あるいはチグハグさは大日本帝国軍の特徴で。

 これも松本零士さんの「戦場まんがシリーズ」からの情報ですが、陸軍機と海軍機では、スロットルの操作方法が逆だったそうで。

 陸海の違いだけでなく、陸軍のみで見ても、三八式小銃と九九式小銃で口径が違ったという有名な話があります。「戦場まんがシリーズ」には「隣にいる戦友の弾も貰えんのか」と嘆く台詞がありました。十四年式自動拳銃が制式となっていた当時、すでにかなりの旧式だった二十六年式拳銃も終戦まで使用されたそうですし(無論、使う弾は両者で別物)。
 当時、日本同様に決して国力が豊かと言えない独逸軍はもちろんのこと、国力で圧倒していた米軍ですら口径の統一くらいはしてました。米軍なんて、ガバメントが不足すると、量産の容易なリボルバーをガバと同じ .45口径で作らせて補ったほどです(M1917 のことね。これ、コルトとS&W両方に統一規格で発注したのだよ)。

 独逸もなのですが、当時の日本は良い物を作る技術だけはありました。拳銃、小銃、航空機、艦船……等々。戦車は独逸と違い、ダメダメでしたが。
 拳銃なら南部式、南部小型、十四年式。小銃なら三八式を始めとする、いわゆる「有坂銃」群。これらは終戦を受けて大量に U.S.A. に持ってかれて、今ではあちらのコレクターが愛好しています(まあ、国内に残ってたら、ほとんどが溶解処理されてしまったはずですから、かえって幸いだったかもしれません)。
 ちなみに、二式小銃(別名「二式テラ」)は、そのユニークで便利な二分割構造が人気で、スポーター・ライフルに改造して使う例が多かったそうです(映画『ダーティハリー』でスコルピオが狙撃に使ったヤツが、まさにそれ)。
 ちなみにちなみに、こういった「アリサカ・ライフル」をハンティングなどに使う際、通常は北米に流通する弾用に口径を改造(「リ・チェンバリング」とか言うらしい)して使うのですが、前にも言ったとおり、別に U.S.A. 市民の皆がガンマニアではないので、無知な所有者が口径無改造のまま流通弾を使う実例が、よくあったそうな。当然、口径が違うのでトラブルとなる。特に適性サイズより大きな弾を入れると……。ところが、その実例にて有坂ライフルは壊れることなく、射手が異常な反動を感じただけで済んだ。狭い銃身内を無理矢理通ったための強い反動だったのだろう。さすが日本の鍛造技術だ。……という話が、かつて『月刊Gun』誌に載っていました。

 単品として見ると、どれも魅力溢れる製品ということです。

 海軍機「ゼロ」の魅力を語る層は日本、海外に枚挙のいとまもなく。
 また、陸軍機も負けてはおらず。特に四式戦・疾風は、敵からも高く評価されたそうで。
 零式を開発した三菱は、今でも日本の物作りを担う大企業。
 疾風を作った中島が分割されて生まれたのが富士重工プリンス自動車というのも、よく知られた話。

 敵として闘いながらも、大和艦を褒め讃えた米軍人もいたそうで。

 独逸の銃器や戦車と同様。
 戦時中に作り出された日本の兵器も、純粋に工業製品として高い評価を受けてきた。
 戦争の勝ち負けについて、あーだこーだと言うつもりはありませんが。
 少なくとも、当時のお偉いさんがたが、その高性能を発揮させるだけの知恵を、あるいはTPOに応じて柔軟に兵器開発をさせる知恵を持っていなかった、というのは、まぎれもない事実なのではないかと思います。
 と、同時に、日本も独逸も、戦時下において歩ではなく飛車角というオーバー・スペックな物を量産する愚を犯したというのも、また事実(これも上層部の愚かさのせいだね)。こういった面を、富野監督は『機動戦士ガンダム』において、ゲルググリックドムとジムとを対比させて描いておられましたね(ジオンを独逸軍、連邦を米軍として見立てた、というのは監督ご自身で公言しておられます)。

 結果。
 平和な時代の視点で見ると。
 旧日本軍の兵器たちは、どれも魅力的なのです。
 そして、これらを魅力的に眺められるのは、幸せなことだとも思います。
 彼ら彼女らが戦場に赴くことは、すなわち不幸なのだと思います。

 大和には「ホテルでもいいじゃない」と言ってあげたいですね。
 三笠と同様に今、大和が例えば呉の港に“お飾り”になっていたらなぁ、と思うと、沈められたのは残念でなりませんね。