下弦 (旧暦 長月廿四日)

 唐突に考察めいたことをしたくなる。



 メーテルとは何者か?

 とは言え、ぶっちゃけ松本零士作品に対してSF考証に基づく真っ当な設定を求めるのは、ガラパゴスゾウガメに空を飛べと言うほどに酷なもの。
『999』本編を読んでも、メーテルの正体に関する描写はフラフラしていて、はっきり申し上げて考察に値しない。ついには、別作品でエメラルダスと双子姉妹にまで行き着いちまうんだもんなー。

 なので、考察と言うよりは、メーテルという存在の意味について考えることになります。

 これを考えるきっかけになったのが、「メーテルの旅」というエピソード。
 999号がワープ中に衝突事故。
 その事故相手がなんとっ、999号。
 向こうにもメーテルがいて車掌さんもいて、でもメーテルの連れは鉄郎ではなく別人。パスに記された行き先も、まったく違う。
 なのに、向こうの少年も宇宙戦士の銃を持っている。
 劇中では、戦士の銃は鉄郎のより向こうのほうが傷だらけ(記憶が曖昧で申し訳ないが、ひょっとするとシリアル・ナンバーも同じだったかも)で、別れ際に服を間違えたメーテルが向こうの服のほうが痛んでいることに気づくという描写もあり、鉄郎よりもずっと遠い未来の999号ということらしいのだが。それ考えると車掌さんも大概、正体不明の人ですがね。
 ここらあたりは、それこそ松本作品定番のユルユル設定と解釈して。個人的には単純に並行世界の999だったと思ってます。

 何かの記事で、松本さんが「メーテルは旅する少年みんなの横にいる」って意味のことをおっしゃっていた記憶があるのです。
 別の記事(あるいは考察記事だったかも)では、「鉄郎は実は独りで旅をしていた」とも。

 独りなんだけど二人。
 二人なんだけど独り。
 で、その“お連れさん”は、すべての旅人それぞれと一緒に旅をしている。その姿はすべて同じ。

「同行二人」じゃねーかよ。

 そう。
 つまり、メーテルとは弘法様だった。

 松本さんが、そういうイメージをお考えだったかどうかは存じませんが。
 実態があるようで無く、正体不明で、常に旅人に寄り添って助けてくれる。
 まさに、遍路に同行してくださる大師様ですよ。
 であれば、鉄郎とは別の少年にもメーテルが付き添っていたことも納得できます(TV版最終話で、鉄郎と別れたメーテルも他の少年と旅立ちましたし)。

 そう考えますとね。
 劇場版やTV版はともかく。
 原作連載で、機械化帝国の最期、そして鉄郎とメーテルの別れまで描く必要はなかったんじゃないのかな、と思うのです。アニメに完全に引っ張られた、謂わば予定調和の最終話でしたからね。
 巡礼には終わりなんてありませんから。四国のお遍路でも、二巡目三巡目と旅は延々と続くわけですし。
 それに何より。
ハーロック』然り『エメラルダス』然り『ニーベルンゲン』然り、長編をきちんと締めくくる能力が絶対的に欠落している松本さんです。無理して締める必要なかったと思いますよ。
 現実、『999』は再起動してしまい、しかも頓挫中。
 ならば明確な結末には触れず「鉄郎の旅はまだまだ続く」で連載を一旦終えたほうが格好良かったのに。そもそもが、鉄郎とメーテル狂言回しにした一話完結の連作モノなわけですし『999』という作品は。



 途中から話がズレちまいましたが。
 メーテルが大師様という思いつきは自分で、わりと気に入りました♪