同じテーマが続くけど。
地域によっては、まさにお盆が済んだところだから、まいっか、と。
祇園祭も霊を鎮める目的だから、お盆みたいなもんだし。
悪霊にお経。
と、よく関連付けますが。
実は、お経そのものに力などない。
なら、なんで悪霊に経文や陀羅尼や真言が効くのか。
それはつまり、それらの背景に佛の存在があるからで、悪霊は言葉でなく佛の力を恐れている。
要するに、悪霊も佛を信じているということに他なりません。
この図式は西洋の吸血鬼などでも同じで。
聖書や十字架そのものには何の力もない。
でも、吸血鬼は自らが呪われた存在だと自覚しているため、聖書などの背後にいる神を恐れている。
これもまた、歪んではいるものの、神を信じていることになります。
悪魔についても同様。
よく悪魔と神を対比させますが。
本当は悪魔と天使です。悪魔にとって天使はライバル以上のものではない。ゆえに怖くなどない。
でも、神は別格。
だからこそ、悪魔も神を恐れるわけです。
これらの考えからすると。
信仰心皆無の人が聖書やお経を持っていても、悪魔も悪霊も、それを恐れることなどないんじゃないかと思うわけです。アイテム自体に力があるわけではありませんから。
御守りについては、いちおう社寺が儀式によって力を入れているので効果ある、というのが前提であり建前でもある。
教会のほうで言えば、聖水は決められた行程で作られるので、あるいは効果あるかもですが、十字架はどうでしょうね。ちと怪しいかなと思います。
逆に。
何も持っていなくても、信仰心があれば、その人の背後に神佛の姿があり、悪霊も悪魔も退散するのかもしれません。
故事にある、夜道で異形に出くわしたもののたまたま経文を持っていたから助かった、というのも実は本人に信仰心があったからなのではないかと思うわけです。
などなど考えて。
いざってときのために魔除けの御守りを携帯するのもいいけど。
陀羅尼や真言をそらで言えるようにしておくほうが、より効果的なのかもしれないな。
と思った次第であります。
もちろん、社寺に対する真摯な気持ちも必須でしょう。
いやー。
怖い番組観るとホント、ダラダラと考えちまいますよ。(;^_^A