八せん始め (旧暦 皐月廿四日)

 あっちに書くのは、さすがに躊躇ったのですが。

 いちおう佛壇だけど宗派なんて知らないし、こだわる気もない。
 ってなケースなら、経本の代わりに摩尼車って選択肢もアリかなと思うのです。

 知ってる人は知っておられますが。
 チベット密教の信徒が寺院に参拝する際に持参する佛具で、柄の先に筒があって、それを回しながら参道を歩いたり本堂でお祈りしたりする物。筒の中には小さな経本が入っており、筒が一回転すると一冊読破になる、というシステム。シルエット的には、でんでん太鼓に似てなくもない。
 これ、携帯タイプだけでなく卓上型もあるんですよね。だから、その卓上型の摩尼車を佛壇に据えたら、回すだけで読経したことになって便利。
 ちなみに、チベットの寺院には巨大な物もあって、参拝者が回せます。

 チベット密教の経本を日本の佛壇にって、いいのか?
 という疑問は当然あるでしょうが、たぶん無問題。どの宗派でも、佛教である限りは、遡ればお釈迦様の教えに辿り着くはずですから。

 それに、日本の寺にも輪蔵という名の、お経を刻んだ円盤状の石を参拝者が回せる設備がありますし。
 もっとはっきり、チベットの寺院みたく大きな摩尼車が設置された寺もあります。
 さらに言えば、膨大な分量の『大般若波羅蜜多経』という経本の山を僧侶が、階段を下りるスプリング玩具(トムボーイ、スリンキー、レインボーなど)みたく両手で持ってダララーっと流して読んだことにする、転読というお勤めもあります。考えかたは摩尼車と同じですよね。

大般若波羅蜜多経』の転読は別として。
 想像しますと、摩尼車や輪蔵は識字率が低かった故の産物なんじゃないかと思うのです。つまり、経本を読めない人のために考え出された佛具なのではないかと。
 であれば、日本人にとって読めない異国語の経本であっても、それを回すことで読んだことになるシステムは有効となるでしょう。

 よって、日本佛教が摩尼車を否定することは、理屈から言ってもありえません。
 佛壇に備えても大丈夫です。たぶん。