土用、下弦 (旧暦 長月廿三日)

 鬼太郎が釣瓶火を従えるのは、超久々かも。
 あとの二体は誰と誰なんだろ? えーと、火の妖怪って言うと、ふらり火、たくろう火、不知火、古籠火、天火、狐火、ジャンジャン火、姥ヶ火、怨念火……。うーん、どれだろ?

 もう、だいぶ前のことになるのかな。
 荒れ地で力尽きた子供と、それを狙うハゲワシを写した写真がピューリッツァ賞を受賞して。子供を見殺しにしたと、写真家が世界中からバッシングを受けた。
 ってことが、ありましたよね。世論は写真家が人命より報道(?)を優先したことをエゴ、売名行為として批判した。
 伝わる話ですと実際には、そこまで緊急な事態ではなかったそうで。撮影の後、写真家はハゲワシを追い払い、子供は自力で立ち上がって、その場を去ったとのこと(撮影直後に写真家自身が飢饉の悲惨さにショックを受けたとする話ともども、あくまでも写真家側の主張)。
 とは言え、写真そのものから受ける印象は、ハゲワシが死にかけた子供を喰う直前にすら見える。
 妖之佑は、この場合、批判されるべきは受賞作品を決めた側、授与する側だと思います。「こんな人の道を外したと思わせる写真はダメだ」とボツにすれば、よかっただけの話。それが長い目で見れば、度を越した写真は認めてもらえない需要がないと写真家たちが学び、ゆきすぎた撮影優先の思想や、よろしからぬ写真の淘汰につながるわけですから。まあ、やりすぎると業界による検閲になりかねないので、バランス感覚が重要ですけどね。
 ちなみに、件の写真家は受賞直後に悲惨な末路を迎えたそうで。ひょっとすると、あの写真は世論だけでなく神様の怒りにも触れたのかもしれませんね。

 今回の話から、↑を思い出しました。
 実際の脚本の意図としては、むしろ芥川龍之介の『地獄変』ではないかと思うんですけどね。『鬼太郎』なんだから和なほうが似合うっしょ。あっちは火、こっちは水と、相対する形でシンクロしてますし。

 みずはさんが久能を責めていないゆえ、鬼太郎としても手を引くしかなかった。
 もし、あれが久能を憑り殺そうとする怨念だったら鬼太郎は放置したでしょうし。あるいは、そこまでいかずとも無念さを持っていたなら真相の世間へのリークを鬼太郎が手引きしたでしょうね。
 結末は、写真を優先した写真家が最後に被写体になる、という皮肉。
 とは言え全然、溜飲は下らない。物凄く後味が悪い。

 そんなに「生と死のボーダーライン」とやらを撮りたいのなら戦場カメラマンになればいい。自分だけ安全な場所にいて恋人やスタッフの危険を喜ぶなんて身勝手もいいところです。
 個人的な希望としては。奴は生身のまま地獄に堕ちて亡者どもに取り囲まれるといいのに、と思う。で、鬼太郎が「よかったですね。あなたの大好きな生と死のボーダーラインとやらですよ。どうぞ、ごゆっくり。なにせ、ここでは時間が無限にありますから」と立ち去ったら最高♪

 五十年前の事件が二期「死人つき」にリンクしてたら面白いんですが、さすがにそれは無理な相談ですね。

 最後に。
 泳げない人は水辺に近づいてはいけません。ダメ、絶対。

 次回はバックベアード様……と思いきや、一年越しの「ハロウィンばくはつしろ」らしい♪
 つか、こうもり猫が出るの?