百鬼夜行

 大雨でも執り行われるのかな百鬼夜行


 雨と言うと、何を置いても雨降り小僧ですね。
 外見の初出は、おそらく鳥山石燕。後の絵、とりわけ『鬼太郎』の雨降り小僧は、この石燕の絵を元にしていると思われます。

 さて、この雨降り小僧。
 好きなように雨を降らせる妖怪なのか、自動的に雨を従える妖怪なのか、はたまた雨の中でしか活動できないので雨を追いかける妖怪なのか。そのあたりが、よく判らない。

 て言うか、そもそも雨降り小僧という妖怪自体、鳥山石燕の創作という可能性が否定できません。石燕の妖怪画集、言うならば『百鬼夜行』シリーズには、他の本や絵巻では見かけない妖怪が、わりと出てきます。なので、妖之佑は大胆に生意気に、鳥山石燕水木しげるさんのような絵師だと考えています。要するに、伝承・伝奇を元にしつつも、自身の創作を加味して様々な妖怪たちに名や形を与えた人、という意味。そこには、もちろん完全創作も含まれるわけです。
 まあ元々、当時の江戸は妖怪ブーム。なので、それまでは存在しなかった……あー、ええと言いかたを変えましょうか。それまでは我々人間に認識できなかった妖怪たちが一気に、その存在を主張し始めた時代と言えます。昭和で言うなら口裂け女のような現象が次々と起きた時代。石燕は、そのムーヴメントに乗ったイラストレーターだったと言えるんじゃないかと。
 そもそも、妖怪には姿形のないものが多い。天候とか音とか振動とかチラッと見えた気がする人影とか何となく感じる気配とか、謂わば「妖怪現象」ですね。そこに形を与えたのが石燕の功績とする考えもあるんじゃないでしょうか。それこそ、水木しげるさんみたくね。

 ちょいと寄り道が長くなりましたが、だからこそ、雨降り小僧の性質が判りにくい。
 まあ想像しますと、急に雨が降ってきたら「雨降り小僧が来たな」って感じだったのかもですね。

『鬼太郎』の雨降り小僧は有名だから、置いときまして。

 個人的に大好きなのは手塚治虫先生の読み切り作品『雨降り小僧』ですね。
 内容については触れませんが、この作品、よく感動ストーリとか心温まるとか評されます。妖之佑も昔は、そう思っていました。
 が、最近思うに、これって、かなり残酷な物語だよな。と。雨降り小僧にとってではなく、主人公である人間の子・モウ太にとっては、悲劇的結末だと思うんですよ。だって、たぶんモウ太は一生、悔やみ続けるんですから。登場人物に厳しく冷淡なのは手塚先生の本領発揮ですね。

うる星やつら』にアメフラシなる妖怪が登場する話がありましたが。
 高橋留美子さん、きっと手塚先生の『雨降り小僧』を参考にしたんだろうなー、と思うのでした。実際、けっこう被る部分が多いんだな。