出雲大社神在祭 (旧暦 神無月十日、十日夜)

 『百億の昼と千億の夜』
 『百億の昼と千億の夜
  光瀬龍/ハヤカワ文庫


 これまた初出が 1965年。SFの当たり年だったんですかね。

 これも昔、読みました。
 つか、妖之佑が自分で買った小説本の最初期に位置するものですよ、これ。
 で、神話と宗教に強い興味を抱くようになったセカンド・インパクトです、これ(ファースト・インパクトは子供の頃に読んだ子供向けの昔話シリーズ本)。
 存在を知ったのは、萩尾望都さんによるコミカライズのほうが先です。ただ、その時点で原作があることを知っていましたから、コミックを後回しにして文庫本を先に買ったのです。
 わりとスラスラ読めたんですよね、当時の妖之佑の愚かな頭脳でも。思うに、物語が一本の世界線から横に移動していないから、ではないかと。

 とは言え、情報量は相当なものです。
 ために尺の少ないコミカライズでは大胆な解釈変更もなされてあり、しかもそれが崩壊していないあたり、萩尾望都さんの底力を思い知らされます。

 この新装版は、その萩尾さんのイラストをカバー絵に使っている。言わば「逆輸入」ですね♪ ああ、挿絵は無いですよ、念のため。
 知らなかったのですよ、加筆修正されていただなんて。なので、持っているのに、また買った。
 いやー変わるものですね、最後の数行だけで印象がガラリと。て言うか、大袈裟に言えば、まったく逆の解釈となりかねない。

 以下は畳んでおきます。


 修正前の版およびコミカライズでは、阿修羅王の闘い(旅)は、さらに延々と外の世界に向かって続く、と解釈できます。
 が、修正された版では、これまでの旅も、さらに続くであろう阿修羅王の闘いも、しょせんは「寄せてはかえし 寄せてはかえし かえしては寄せる波」の飛沫の一つに過ぎない、そんな感じがしてなりません。虚しさでは、圧倒的に修正版の勝ちですね。

 まあ、雑な所がないわけではないのですよ。
 ZEN-ZEN の都市から惑星開発委員会へが、ただ単に地続き。ってのがね。なんで同じアスタータ五○にあんねん? しかも、コミックと違い原作では両者は相互関係を持っていない様子。
 ここは、ZEN-ZENシティと惑星開発委員会とが距離的に離れているとしたコミックのほうが「改善」と呼べるレベルでした。ただし、コミック版の都市と首席の設定は賛否両論だと思いますが。

 ともかく、あれこれと解釈の違いを楽しめますから、これとコミカライズの両方を読むことをオススメしたいです。
 妖之佑の旧友はコミックが先だったせいでか、原作の一部を酷評してましたけどね。「なんで******の**をあそこで出さなかったんだ!(怒)」と。(;^_^A

 さて、ここからは念のため反転。


 本当は比較したくないのですが。
 同時期の作品であり、テーマも「大宇宙全体を舞台にした神と魔の闘い」と似通っているため、やはりどうしても『果しなき流れの果に』との比較は避けられないでしょうね。

 簡潔に言いますと。
百億の昼と千億の夜』は、人がどれだけ必死に抗っても、そんなのは大宇宙の超越者からすれば、塵ですらないほどに小さなものだ、という虚しさを描いていると思います。阿修羅王たちの闘いは MIROKU からすれば蟷螂の斧に過ぎないのでしょう。
 対して『果しなき流れの果に』は、そんな一見すれば矮小なものこそが最も大切だと言っている。大袈裟に時空を駆け回って闘っている連中は、そんな大切なものに気づかない、あるいは忘れてしまっている愚か者だ、と。
『百億千億』は「どうせ還れないのだから、もっともっと高みを目指せ」と言い、『果果』は「足元を見てごらん、ほら」と言っている。

 だいぶ後に発表された佐藤史生さんの『ワン・ゼロ』は、たぶんこの二作品に強く影響されたんでしょうね。
 神×魔の闘いであること。主人公サイドは魔であり、あえて言うなら神が悪役であること。
 そして、宇宙全体が「誰かさん」の使うシステムであり、人の視点では“迫りつつある危機”が実は、その「誰かさん」がシステムの不具合を直すべく導入したものであろうということ。
 などなど、共通項目が多すぎますからね。
 しかも、壮大な闘いのあとには仲間たちのフツーの青春物語が展開されちまう♪(主人公だけは高みに行っちまいますが)

 しかしまー、本当にスケールの大きな物語です。
 1965年と言うことは映画『2001: A Space Odyssey』より古いわけですから、日本のSFも負けてない。凄いのですよ。ええ。

 けど。
 昔っからいくつかの紹介記事で、よくそんなふうに言われていますけど。
 物語の中で五十六億七千万年は経ってないですよね? あれ? 経ってる?