八せん始め (旧暦 神無月九日)

 『果しなき流れの果に』
 『果しなき流れの果に』
  小松左京/ハルキ文庫


 初出が 1965年の、小松左京さんのSF長編。

 感想の前に。
 以前、アニメ『STEINS;GATE』(第一期)の感想の際に、『果しなき流れの果に』のタイム・トラベル部分のことを一つのループになっている、時間旅行と並行世界を一緒に扱ったのは松本零士さんの『ミライザーバン』が日本では最前列なのでは、と述べました。
 ごめんなさい。訂正します。m(_ _)m
『果しなき流れの果に』は、後々にいろいろなSF系作品での定番となる、タイム・ループとパラレル・ワールドを組み合わせて考える手法を取っています。『シュタゲ』で言うところの「世界線」の概念が、ちゃんと描かれています(一つの歴史では地球が滅んでおり、別の歴史では地球が健在、といった感じで)。
 妖之佑なりに噛み砕いて言いますと。
 世界(宇宙)は地球儀の表面みたいなもので、南極から北極へ行くのに、様々なルートがあり、それぞれが歴史であり、しかし最終的には皆、必ず北極に到達する(それこそ『シュタゲ』の「世界線の収束」をデカくしたようなものか)。だが、地球儀の表面を行く当人たちは、もちろんそんなことを知るよしもない。地球儀の表面から離れ、高位から見下ろす者だけが世界の本当の姿を知ることができる。
 てな感じでしょうか。

 プロローグで、あり得ない光景を見せて、まずは読者を捕まえ。
 第一章、第二章を謎多きミステリー調に進めて、読者の好奇心をガッチリ拘束。
 そして、よりにもよって、ここで大胆にも「エピローグ(その2)」なんつー代物を持ってくる。第一、二章のヒロインに一つの結末を迎えさせ、読者に喪失感を与えてーの。
 第三章からの、トンデモ御殿な怒濤のSF展開!
 第十章にて、あれこれと言いたかったこと、つまりは“解答”を示したのちに。
「エピローグ(その1)」が物語のトリとなる。

 いやー、一つまちがえたら破綻する構成ですよ。
 でも破綻しない。むしろ素晴らしい。さすがと言うしか、ありません。

 これを最初に読んだとき、ぶっちゃけ意味不明でした。第一、二章と、二つのエピローグだけしか頭に入りませんでした。特に、エピローグは心に強く残りました。今回、読み返してみて、ほぼ完璧に憶えてましたよ、エピローグ(まあ、他の章に比べて遙かに読みやすい文体ですし量も知れてますからね)。
 他がね……当時のオイラが今より遙かに大バカだったってことでしょう。読解力もSF考証の能力も何もなかった。だから読んでも理解できなかった。
 それが今は、少しはマシになっているのか、多少は、この作品を判ったように思います。まあ本当に「多少」のレベルですが(汗)。

 以降はネタバレに触れますので畳んでおきます。


 第三~十章の、言わば本編における基本構図は、「“彼”」を頂点とする管理者組織と、「ルキッフ」なる者の率いる抵抗組織との抗争です。
 管理者は時空間の秩序を守りつつ、宇宙にある知的生命体をより高位に導くべく活動。対してルキッフたちは、そんな一方的管理を全否定、人々に真相を知らせるべく歴史改変を続けるとともに同志を増やすため奔走する。
 この中での重要人物は三名。管理者側のアイ、抵抗勢力側のN、そして少し下がって松浦。主に、Nを追うアイという構図です。そこに松浦が絡む。
 アイは肉体を持たない超意識体。
 Nは、第二章で消息を絶った野々村の、その後。
 そして松浦は、二十一世紀半ば、太陽の異常活動によって滅ぶ地球と火星を捨てざるを得なかった地球人の一人。松浦がアイに体も精神も乗っ取られたことで逆にアイの心に影響を与える。という形で、二人の追跡劇にスパイスを加えます。

 まあ、そんなこんなで、いろいろ楽しいガジェットの数々(軌道エレベータとか、ブラウン管に宿る幽霊とか、プロトタイプ日本沈没とか、サルならぬネズミの惑星とか、役小角とか、果心居士とか、とかとかとか)を盛り込んだ本編ですが。
 妖之佑的には、あらためて読んで、おバカなりに頑張って内容を頭に入れて。
 それでもなお、この物語の主人公は佐世子さんだと思います。つまり、一番大切なのは第一、二章を踏まえての佐世子さんの人生を描いた二つのエピローグ。三~十章は、そこへ至るための膨大なる露払いでしかない。断言します。

 ここからは、さらなるネタバレとなります。
 反転しておきますから、読んでから怒らないでくださいませ。


 初めて読んだときから妖之佑は、エピローグの老人を、第一、二章に登場した大学院生の石田だと考えていました。
 が、巷では石田説以外に、野々村説があることを知りました。
 ですので、妖之佑なりに考証の真似事をしてみようと思います。ええ、真似事ですよ。

 佐世子さんは、失踪した恋人・野々村を待ち続け「いかず後家」となってなお野々村を待って待って、そして生涯を終えた。
 なので、佐世子さんが最後の二年足らずを一緒に過ごした身元不明の老人こそ野々村だ、としたい読者の気持ちは理解できます。佐世子さんは野々村の手を握りしめて亡くなった。そう思いたい気持ちは痛いほど判ります。

 が。
 それでも、あの老人は石田でしょう。
 根拠は、スイスのアルプスで発見された日本人らしき若者、「“アルプスの謎の遭難者”」が半世紀の昏睡から醒めたとき、記憶を失っていたものの登山の知識に関しては反応した、という点です。石田は日本アルプスへ登山に出かけたまま消息を絶ちました。つまり、登山の心得があったはずです。
 一方で残念ながら、野々村が登山を嗜むという描写は一切ありません。なので老人を野々村だとすると、覚醒した老人が登山の事に反応したという部分がイミフとなります。
 もう一つ、状況証拠を挙げましょう。
「“アルプスの謎の遭難者”」は発見されたときアンダーシャツに股引き姿だったと、デイリー・ニューズに書かれてありました。この記事が正しいとして。野々村は、深夜に東京からの緊急の知らせを受けて慌ただしくホテルを後にし、そのまま消えました。出かける際に「大急ぎで服を着た」とありますし、年齢的(1945年の神戸空襲時に「赤ン坊」で、失踪から数年後の外見が「三十前後」)にも股引きをはくとは思えません。ついでに、このときの季節ですが、はっきりとはしませんが古墳周辺に「草むら」や「丈なす草」があったことや、バスタオル一枚の佐世子が「あつい」と言ってホテルの部屋の窓を開けようとしたことから、冬ではなさそうです。ますます股引きが場違いです。
 そして繰り返しになりますが、石田は日本アルプスに登山に行ったまま消えました。登山であれば季節を問わず防寒対策は基本です。よね?

 ただ。
 佐世子さんのために野々村説を唱える人も絶望することは、ないのです。
 ある意味、あの老人は野々村でもあるのですから。

 石田の失踪は、古墳調査に関わった他の人々同様、時空間の秩序を守るため管理者組織が行った処置に違いありません。
 が、処置=殺す、とは限りません。この物語では管理者も抵抗組織も慢性的人手不足に陥っているらしく、見込みのある者をどんどん教育しては戦力として現場に送り込んでいます。抵抗組織側は肉体を持ちますが、管理者側は超精神体、つまり言ってしまうと魂だけの存在です。アイは必要に応じて肉体化したり、ロボットの中に入ったり、あるいは人間の体を乗っ取ったりしてました。
 で、石田は 196X年にスイスで発見されてから 2016年までの半世紀を昏睡のまま過ごした。本文中にて「不思議なことに」「ふつうの睡眠より、はるかに深い眠り」と病院のナースに言わせています。これは魂が抜けていたと考えられないでしょうか? その眠っている五十年間(とか言うのも、時空間を縦横無尽に飛び回る者に対して変な表現ですが)、石田の魂は管理者のメンバーとして教育され働いていたに違いないのです。
 第二章で同時に消えた野々村を始めとした関係者の人々は、ですが、同じ時系列で失踪後を過ごしているとは限りません。なぜなら、管理者も抵抗組織も時空間を自在に移動できるのですから。なので、Nこと野々村が「新入り」であっても、同じ舞台に登場する他の者まで同じく新人とは限らない。野々村と同じ頃に消えた石田が、とんでもないキャリアを積んでいることだって、ありえるわけです。

 で。
 野々村を執拗に追いかける者の名は「アイ」。
 このアイは単なる名前でしょうか? それとも何かの略称でしょうか? あるいは?

“救出”した地球人の集団を運んでいる途中に、二十世紀ニューヨークの探偵事務所に立ち寄ったアイは、そこでデイリー・ニューズに載ったスイス発信の記事が、なぜか気になってしまいます。そう、あの「“アルプスの謎の遭難者”」が発見された記事です。
 過去を失った野々村は「N」を名乗った。イニシャルを仮の名にしたわけですね。
 さて、石田のイニシャルはと言うと…………。

 妖之佑は、アイこそが石田(の魂)だと考えています。
 管理者組織に拉致された石田は、肉体だけスイスの山中に捨てられ(あるいは魂を抜く際に逃走されて、ああなった?)、魂は教育されたうえで実践投入、功績を上げ幹部にまでのし上がったのでしょう。
 抵抗組織の「新入り」野々村とで時間にズレがあることに何ら問題がない理由は、上で述べました。
 あと、「それなら、第二章の裏側で、アイが石田を、つまり自分を拉致させたことになるのか?」という疑問が出るかとも思いますが。何度も言うように、この物語では時間旅行と多重世界とが共存しています。なので古典的なタイム・パラドクス問題は起こりません。
 Nこと野々村を追跡するアイこと石田は、そもそも未来の野々村が過去に作った古墳の玄室のせいで大学院生だった人生を狂わされましたし。その野々村だって、未来の自分自身が過去に作った古墳の玄室のせいで、素敵な恋人を持つ人生を狂わされたんですから(笑)。ついでに言えば野々村は、アイが宇宙人のふりをして「第二十六空間」の火星から松浦たち地球人を拉致したからこそ、この世に誕生し、野々村姓を名乗るに至ったという経緯もあって。つまり、アイが捕まえるべきテロリストを、そもそも生み出したのはアイ自身の行動が原因だったりする。ああ、ややこしい。

 超精神体であるアイ(石田)は松浦を取り込み、終盤では松浦の体から抜け、野々村を取り込みます。
 その挙げ句に、行ってはならぬ領域まで行ってしまったアイは、その報いとして滅びることとなる。そして、おそらくは「“彼”」によって、滅びゆく肉体すなわち老体の中に「ほうむ」られた。
 その結果として、「“アルプスの謎の遭難者”」が五十年ぶりに目覚めたのです。

 自らの肉体を離れた石田はアイとして管理者の仕事をこなし、その過程で松浦を肉体ごと乗っ取り、終盤でそれを捨てて、おそらくは肉体を破棄した野々村の精神を取り込んだ。
 ですから、目覚めて日本に帰国してから、「何かにひかれるように」葛城山麓を訪れ、佐世子さんの家を通りかかった(第二章にて、野々村はランド・ローバーの窓から鴨野家の外見を見た程度だろうが、石田は戸口にまで行っている)老人は、石田であると同時に野々村でもあるのです。
 佐世子さんの半生をかけた願いは叶ったんだと思いますよ。

 第十章で展開された御大層な御託の数々など、実はどうでもよく。
 エピローグ(その1)にて、老婆にせがまれて夢に見た事を語り始める前、老人が平凡な農家の庭を見回すシーン。これこそが作者の最も言いたかった事だと、そう感じます。小動物や虫や草木の名が淡々と綴られているだけなのに、なぜこんなにも涙が溢れてくるのか…………。

 奇しくも、“佐世子さん夫妻”が生涯を閉じたのは 2018年です。
 このタイミングで再読することになるとは思ってもいませんでした。いや、年代設定なんて憶えてなかったっつーの。

 ところで。
 あとがきにて小松左京さんは、この物語の幅を「約十億年」と言っておられますが。
 Nは過去は白堊紀、未来は六十世紀まで移動しましたが、これですと一億五千万年の幅ですよね? 本文のどこに、「十億年」を具体的に確認できる記述があったのか、愚かな妖之佑は見つけられませんでした。
 あと十回は読み返す必要が、あるかなー。(;^_^A