(旧暦 神無月七日)

 一方で非合理的と思われるのが「仕切り」ですね。
 東西両力士が淡々と塩を撒いては土俵に手を置いてを繰り返す。
 で、時間いっぱいになったら本気を出して立ち合う。

 力士のモチベと会場の雰囲気を盛り上げるための演出だとする向きもありますが。
 元は違った。

「時間いっぱい」「待ったなし」の言葉から、お判りでしょう。
 淡々と進む仕切りですが、実は勝負は始まっています。呼び出しに名を呼ばれ土俵に上がり塵を切ったときから闘いが始まっているのです。
 つまりです。行司の「待ったなし」を聞く前に立ち合ってもいいのです。つか、むしろ、どんどん時間前に勝負すべきであり、本来の姿がそうだった。あの淡々と進む「仕切り」は実は「待った」なのですね。制限時間いっぱいまで目一杯、待ったを繰り返しているのが今の「仕切り」なのです。
 実際、積極的な力士同士で、時間前に立ち合い成立することもあります。希に阿呆な行司が立ち合いを見逃しかけることも……(たいていは気迫で判りますけどね。「あ、こいつら立つ気だな」って)。

 国技とは言え興行ですから、演出面での意味を全否定する気はありませんが。
 立つ気の全然ない、気の抜けた仕切りを「美しい」とは思えないのですよね。その意味で、きわめて非合理的で無駄なのが今の「仕切り」だと思います。
 いつ立ち合うか判らない緊張感のほうが、ずっと面白いと思うんですよ。