「稲生物怪録」と一口に言いますが、実のところは、ややこしいのです。
備後三次の藩士・稲生武太夫の身に起こった、いわゆる怪奇体験を後に記録したものと、その写しの総称であり、当然いろいろな題名・形式があるわけです。それらを可能な限り集めたのが、この一冊。
ご存じとは思いますが、まあいちおう。
武太夫がまだ平太郎を名乗っていた十六歳の夏、七月の一ヶ月間に渡り妖怪どもが稲生家に現れ続けるという事態になります。が、平太郎は冷静に、これらを眺めたり撃退したりで、ついに妖怪側が根負けする。そんな流れですね。
「集成」としたために、一つひとつの絵が小さくなってしまったのは難点ですが。とにかく複数の版を比較できることの便利さ面白さ、これは素晴らしいです。「あー、これは書いた奴が誤解してるな」とか「これは、こいつを写したのかな?」とか想像も広がって楽しいです。
具体的な内容にまでは触れませんが、一つだけ。
ラスト、平太郎に妖怪どもの親玉・山本五郎左衛門が面会するシーンで、平太郎の横に冠に装束の男が上半身のみ現れるのですが。巷では、これを山本のライバルである神野悪五郎なる魔物としています。これが、とにかく納得いかなかったのです。なぜなら、平太郎の横で静かに山本を見る様子が頼もしくあり、また神々しいからです。とうてい悪者には見えない。
今回、この本で見比べて、その原因が判りました。一本だけ、冠の人物をはっきり悪五郎と明記した絵巻物があったのです。ですが、他は平太郎の氏神様だとしています。もちろん氏神様が正解でしょう。書き写した者が勘違いしたかミスしたか、あるいは勝手に変更したかですね。
以前にご紹介した『何かが空を飛んでいる』に収録されている『稲生物怪録』に関するエッセイの中で著者の稲生平太郎さん――あーややこしい、エッセイの名義・法水金太郎さんとお呼びしますね――法水さんは、『稲生物怪録』を平太郎の夏休みだと述べておられます。法水さんの言葉をお借りするなら、七月の一ヶ月間、平太郎の家には友だちや親戚が入れ替わり立ち替わり手土産など携えては訪問、夜通し呑んで喰ってダベってゴロ寝して夜が明けて、そのまま朝寝・昼寝のフリーダム♪ そして花火や蛍の代わりに妖怪どもが、いろいろな芸を見せてくれるわけです。なるほど、たしかに夏休みですね(笑)。そう思って読みなおすと、また面白いものです。
法水さんがあえて「稲生平太郎」の筆名を名乗るのは、怪奇現象を冷静に観察・判断するという意志の他に、平太郎のような「夏休み」を生きたいという想いも込められているのかもしれませんね。
ともあれ。
買いの一冊だと思います。