かなり久々に観た『4』。
「クリント-1」が光ってた。
それだけの映画でした。
その格好良いデザインのわりに、オートマグが活躍する映画って、案外と少ないんですよね。
内容については……う〜ん。
これ、クリント・イーストウッド氏の信者には面白くて仕方ない傑作なのかもしれませんが。
中の人のではなく、あくまでも「ハリー・キャラハン刑事」のファンにとっては、最悪な作品ではないかと思います。て言うか最悪です。
刑事でありながら、まるで騎兵隊か何かのように颯爽と登場。犯人を逮捕するのではなく、悪人を容赦なく次々と退治する。
この西部劇的な作りは第一作目に共通します。おそらくですが、一作目のドン・シーゲル監督が、当時はマカロニ・ウェスタンの俳優として名を売っていたクリント・イーストウッド氏のイメージから、ハリー・キャラハンのキャラクター作りをしたのではないかと想像します。
ただし、ハリーは、あくまでも刑事。そこをギリギリの線引きで越えずに踏みとどまった第一作に対し、第四作目のハリーは一線を越えてしまった。
ダーティなハミ出し刑事も、自分の女には弱かった。
では、すまされません。
こんな幕引きを選ぶなら、ハリーは第二作目でディビスらの誘いに応じているべきです。そう、サンフランシスコ版「必殺仕置き人」組への参加をすべきでした。そうすりゃ、相棒も爆殺されずに、すんでいたかもしれないし。
あのときのハリーの怒りは、どこにいった? 私刑に対する憤りは、どうした?
『ダーティハリー』によく似た映画、あるいは『ダーティハリー』の二次創作を大金かけて作った。
とか言うのなら、このストーリはありなのだと思います。映画の出来としては、いちおうA級でしょう。
「いちおう」と言ったのは、画作りに凝りすぎて観辛いものになってしまっている部分がね、気になったからです。とにかく暗すぎるんですよ。誰が誰だか判らないほどに影が多すぎる。イーストウッド監督としては十作目だそうですが、まるで技法に酔った若手監督みたいな暴走ぶりは、氏の心が若手以上に若いからなのかな?(巨匠に対して、たいへん失礼なこと言ってます。はひ)
それと。
ヒロインの最後の台詞がね。
犯罪被害者としての抑えようのない怒りと、そのため犯罪に走った過程は理解できるものの。
犯人どもに敵討ちをしたうえで、それでも殺人犯として捕まるのは御免だ、とする態度に腹立ちました。この台詞で、すべて台無しです。
ですので、『4』を『ダーティハリー』シリーズから独立した単品として考えてすら、個人的には認められないと思っています。
これ、U.S.A. と日本との違いなのかな。
日本の創作であれば、仇討ちで本懐を遂げたあとの自分の処遇などどうでもいい、というスタンスが多いと思います。その最たるものが『忠臣蔵』ですよね。仇全員を始末するまでは捕まるわけにはいかないが、完遂したあとには素直に縄に付くのが日本的な敵討ち。
ところが、『4』のヒロインは、全員の死を見届けたあとでも「逮捕されるのは嫌だ」と、ハリーに意思表示しました。酷い女です。
そして、そんな身勝手な女を庇ってしまったハリーも地に墜ちました。
たぶん、あのハリーは同姓同名で外見もそっくりな別人なのでしょう。あるいはパラレル・ワールドのハリーさんなのかもしれません。
まあ、続編がどれだけゴミだろうとも、第一作目の栄誉が穢れるわけではありません。
そうでも思わないとね。
やっぱり、クリント-1を楽しむだけにしておくのが、この作品の正しい鑑賞法なのでしょう。
そうは言いましたが、オートマグ以外にも褒めるところは、あります。
シリーズに欠かせない、あの役者さん。今回はダントツに台詞が多くて、ファンにとっては嬉しい要素だったと思います。
それと、コーヒー・ショップでの悪人退治。一作目の銀行強盗シーンに負けないくらいユニークでした。「コーヒーに砂糖が山盛りだったからクレームつけに戻って来た」ってのがね、もー洒落てて♪ 店員さんも、あの危機的状況で見事な機転でした。
悪党どものクズぶりも、第三作目に比べると、かなり盛り返しました。スコルピオのレベルには、とうてい届きませんけどね。
ヒット作があると続編が求められるのは世の常ですが。
続編が酷評される。
あるいは。
二匹目のドジョウを狙った続編が、その欲望ゆえに駄作に終わる。
というのは宿命なのかもしれません。
いや、それにしても。
M29 にしろオートマグにしろ、そーとーにデカい拳銃なのに、イーストウッド氏が持つと重量感がありませんね。軽々と持って、手に馴染んでいる感じ。
氏の身長が 193cm だそうですから、さぞかし手も大きいことでしょう。その大きな手で握ると、二つのマグナム銃も軽く「ハンドガン」扱い♪
他の野郎(特に日本人)が真似したって、銃の大きさに振り回されるだけで、とうてい似合わない道理ですよ。